増田大輝が『とび職』に就いたわけ?大学中退したのはなぜ?

巨人軍の増田大輝選手が今巷で話題になっている。野球を突然やめて『とび職』に就いたわけ?はどうしてだったのか?また近畿大学野球部を2年で中退したのはなぜだったのか?巨人育成ドラフト1位から増田大輝の背番号の変遷?物議を醸しだした原監督の采配、6日の阪神戦8回1死、0―11の場面とは?
 

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増田大輝選手プロフィール

 

増田大輝はどうして大学を中退?

増田大輝選手は、小学~中学と軟式野球を始めています。
高校生(小松島高校)になったときは、すでに1年生から内野のレギュラーポジションを獲得するほどの選手だったといいます。

2年生の夏は県大会決勝で残念ながら敗退します。

3年生の夏には内野手から投手に回り、エース兼キャプテンという重責を担って甲子園に照準を合わせます。
結果としては、県でベスト4という成績でした。

増田大輝選手は、3年生の夏の大会終了後に、高校四国選抜代表としてハワイ遠征に選ばれます。

高校野球の実績を引っ提げて、近畿大学に進学し野球部へ。

ところが、増田大輝選手に何が起きたのか、僅か3試合に出場しただけの2年生で近畿大学を中退(2013年)するという道を選びました。

当時のことを今でも増田大輝選手は、一切口にすることはありません。
近畿大学の野球部が描く野球と、増田大輝選手が夢見る野球とのギャップがあり過ぎたのでしょうね。

スポーツの中で、チームプレーの競技は、監督さんとかコーチの考えで、選ばれる人、そうでない人の差がはっきりしますよね。どうしても、人間ですから相性とか好き嫌いといった、技術だけでは計り知れない運とかがありますよね。

当時の増田大輝選手も近畿大学野球部にフィット感が湧かなかったのでしょうね。
2年で大学やめてどうするのこれから?
 

増田大輝選手がとび職を・・・

徳島の地元に帰って、とび職に就いて生活費を稼いでいました。
野球を続けるためのとび職だったのでしょう。
野球が好きだった増田大輝選手は、休日には草野球をすることは進んでやってました。
野球に対する情熱は、増田大輝選手から消えることはなかったことの証ですね。

増田大輝,とび職

引用:https://yahoo.jp/1wGMWJ

とび職の仕事は、野球と同じチームプレー
一人でもチームを乱すものがいたら、鳶仲間が命を落とすほどの危険な仕事です。

とび職は決して表舞台に出る仕事ではありません。
常に建設現場の裏方の仕事です。
 

増田大輝選手は、とび職を2013年から独立リーグに入る2014年まで経験しています。
短い期間ですが、普通の体力でできるとび職の仕事ではありません。

増田大輝選手は鳶職を経験し、「メンタルを鍛えられた」と当時の苦労を語っています。

その後、高校時代の監督や増田大輝選手の彼女(現・妻)の勧めもあって、野球への情熱を取り戻し、四国アイランドリーグのトライアウトを受けて、2014年に徳島インディゴソックスに入団します(3位指名)。
1年目から二塁のレギュラーに定着し、チームの独立リーグ日本一に貢献します。

増田大輝選手は、2年目の2015年はアイランドリーグ選抜チームの一員として北米遠征に参加。
2015年のドラフト会議で、育成ドラフト1位で読売ジャイアンツに指名されプロ野球選手となったのです。

増田大輝選手がプロ野球選手として、羽ばたいていく様子を背番号の変遷で見ていきましょう。
 

増田大輝選手の背番号の変遷

2015年、プロ野球選手なった読売ジャイアンツ育成ドラフト1位のときの背番号は015

三軍監督の川相昌弘さんの目に止まったのは2016年。
「成長株」のレッテルが貼られました。

2年目の2017年にはオープン戦での出場機会も増えて、登録期限近くの7月28日に支配下登録を勝ち取ります。
二軍で主に遊撃を守り、打率3割をマーク。背番号98

2018年には、二軍で二塁を守り、11盗塁をマークします。
打率.230と打撃で結果を残せず一軍昇格には届かず。
オフに背番号を63

2019年には、一軍初昇格し、東京ヤクルトスワローズ戦でプロ初打席初安打となるタイムリーを放つ結果を出して、一軍に定着することに。

ヒーローというお立ち台にも顔を出す増田大輝選手がいた。優勝となる9月21日の横浜DeNAベイスターズ戦で代走から途中出場し、延長10回に優勝を決める決勝点となるタイムリーを放った。

ヒーロー増田大輝選手の誕生です。

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2020.8.1@東京ドーム マッスー‼️ #増田大輝

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オフに背番号が0になりました。

 

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増田大輝ピッチャーで物議を呼んだ

6日の阪神戦で巨人・原監督が8回1死、
0―11の場面で野手の増田大輝選手を投手起用したことが物議を醸しだしてしまいました。
 
当の原監督は、
「特別なシーズンを戦い抜くための作戦、マネジメントだ」と。
異例の采配を憚りませんでした。
 

 

あなたは、賛成派?

時代の流れといったものを感じるOBの方もいらっしゃるようで、野手と投手とのプライドの領域があるみたいですね。

この領域は日本野球の一番大切な部分ですよね。
まさに武士道精神といった部分かとおもわれます。
試合に勝てば方法論は問わないというメジャーの考え方。

いやいや、相手のチームにも敬意を払ってプロとしての配慮をした方が・・・。
そんな人間性まで問われる、増田大輝(ピッチャー)の起用でした。
 



 

増田大輝が『とび職』に就いたわけ? まとめ

もちろん、増田大輝選手が『とび職』についたわけは、生活のためでした。
特に『とび職』に憧れていたといったものはありませんでした。

普通に生活のための職業が『とび職』だったというものでした。

大学野球を2年生で止めてしまったわけは、大学に残されているものは
増田大輝選手の「一身上の都合」という理由からでした。

このような経緯などを深堀していく中で、増田大輝選手の内面に秘めた『芯』の強さを感じました。
これからも、活躍を期待します(妻と子供のためにも)

 


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